いつも胸やけ

ムーミンと夫と子どもと暮らしています

『せいいっぱいの悪口』

起きたときにはそこまで寒さは感じないけれど、外に出た瞬間に「わ、さむい」と思う。あと校内も寒い。寒いし職員室の前の廊下はなぜかいつも電気が消えていて、余計に寒々しいのでどうにかしてほしいとつねづね思う。

編集北尾さんに、「もう本は発売を迎えたということでよいのでしょうか、、?」と聞いて、書店に並ぶのはこれからだけれど、Amazonでは購入できるし、そういう認識でよい、とお返事があって、いつの間にかもう『せいいっぱいの悪口』は発売を迎えていた。

出版の話をいただいてから数えれば9ヵ月で、長いような、同時にまた本を作ると思えばそんな一年足らずで完成してしまうものなのかと驚くような、出来上がってもまだどこか他人事で、これからだれかの手に渡って感想などをもらうことで実感するようになっていくのだろうか。

本は、恥ずかしいけれどせっかくだから教科主任に渡した。国語科で回してもらえたら、と伝えて、返ってきたら図書室に寄贈しようと思っている。この前司書さんに挨拶に行ったら、とても喜んでくれてサイン入れてくださいよ、と言われ、それは誰宛のサインになるのだろう。「◯◯中高さまって書いてくれたら」と言われてなるほどと思う。堀静香という名前は旧姓で、今勤める学校では違う名前で呼ばれている。生徒たちは実に愉快で、今日は授業中に涙を流して笑ってしまった。しかもどうやらわたしのツイートを見ているらしいから本が出ることも既に知っているけれど、授業で改めて話すかどうか。近所の本屋にも置いてもらえることになったので、そのことはちょっと自慢してみようかと思っている。

「五時間目は日が出とったからあったかかったけど、さっきは雲が出てもうめちゃくちゃ寒かった」と体育の先生の声が聞こえて、やっぱり寒さのことをみんなこうして口にする。向かいの家庭科の先生から、寒いからね、とスティックタイプのカフェオレをもらった。わたしは職場にマグカップを置いていないのでこれは夫のお土産にして、引き出しから小分けのアポロチョコを出して先生に渡した。この前の週末に出かけた老人ホームのお祭り(老人ホームの祭りにばかり行っている)でもらった小さなお菓子が今家に大量にあり、というのもこれらは「お菓子撒き」で得たもの。駄菓子が空から降ってきて、それを這って拾う。うまい棒だとかおやつカルパスだとか飴だとかが、だからわんさか家にあってこうしてその一部を引き出しに忍ばせている。

こうして一冊になった本には、書けなかったことがたくさんあるなと思う。頭のなかをからっぽにして、すべてを出したつもりで、渾身の力で書いたことにかわりなくて、それでも一冊になってしまえばわたしの手をはなれて、するとどうしても書けなかったことのほうが気になってしまう。でも、どんな人にどんな風に読まれてもうれしい。

ぽつぽつと、書店さんにも置いていただいているツイートを観測し、とても不思議な気持ちがする。昨日、北尾さんから「早速Amazonのカート落ちになってますね」とメールが来て、カート落ちという言葉をそもそもよく分かっていなかったが、一時的な在庫切れということなのだろうか。ありがたいことに、すぐに対応してくれたから今朝には復活していたが、在庫切れということは発売直後に買ってくれた人が多くいたということなのだろうか。売れるのか。そんなに売れないのか。気になってしまうのは、これはかつて作ったZINEとは違って、編集者をはじめ、多くの人を巻き込んで作ったものだから。少しでも売れてほしいと思うから。けれど正直、これはとても地味な本なのではないか。北尾さん、よくはじめにこれを売ろうと思ったな、すごいな、と思いつつ、だからバズったり派手にメディアで取り上げられたり、そういう注目のされ方はしないのだろうと思う。分かっていながら、ほかの人の本が増刷をくり返すのを見て、すごいなぁと思って、そしてたぶんものすごく焦ってしまう。これから来る北尾さんからのメールは増刷します! というお知らせなのではないかと1%くらいチラついて開くまでに緊張してしまいそうなのでほんとうにそのときには電話をください、と後で連絡しようと思う。
けれどひとつ、とてもうれしいのは、この『せいいっぱいの悪口』は版元の百万年書房のあたらしいレーベルの一作目ということで、これからつづく数冊が素晴らしい書き手の方ばかりで、そうしてシリーズのひとりになれたことはとても光栄です。(巻末にシリーズの告知があります)

これから控えているイベントもあり、既にサイト内で売り出してくれている書店についてもリンクを貼っておきたいと思います。

細くでもいいから長く、読まれる一冊になったらうれしいです。次の文フリ東京でも百万年書房のブースに立つ予定なので、そこでお会いできる方もいるのだろうか、そんなことも思いつつ、これからどうぞよろしくお願いします。

lighthouse(千葉)
https://lighthouse24.thebase.in/items/67083679

またlighthouseさんでは11/11に僕のマリさんと刊行記念トークイベントがあります
https://books-lighthouse.com/portfolio/seiippai221111/

toi books(大阪)
https://toibooks.thebase.in/items/68310211

ホホホ座浄土寺(京都)
https://hohohozazaza.stores.jp/items/6357b2fef80f1e672cbc696f

どんどん扱っていただける書店は増えてゆく予定、、ありがとうございます。よろしくお願いいたします!

はじめ、ZINEを作ったときに考えたこの「せいいっぱいの悪口」というタイトルを、自分で考えたくせにあまりいいものに思えず、ずっと実はピンと来ないままだった。でも、いいやもう、とこの名前で出して、それからは「いいタイトルですね」と言ってもらえることがしばしばあった。そう言われてみれば、そうかもしれないととても単純に納得して、こうして同じタイトルのまま出版されるなんて、当時はぜんぜん、思わなかった。

大きい犬、小さい犬

お節介な人というのはいて、夫がだいたいそうである。今日は寒いから上着を着ろだの、あるいは入れた覚えのない折り畳みが鞄に入っていたり、てきぱきあれこれ、わたしや子どもの世話を焼いている。ありがたいこともあれば、正直ちょっと鬱陶しいときもあり、しかしそう指摘すると本人はいつも「よかれと思ってやったのに」と言う。今も枕元まであたたかい紅茶を持ってきてくれた。「こぼしたらいけないからね、少なめにしといたからね」と言われる。もっとなみなみに入れてほしかったのだけど、それは言わずにおいた。

そしてどうやら子どもも、保育園でお節介を発揮しているらしいことを知る。ダンスの時間に気の乗らないで床にごろごろしている子のところへ行き、なにやらゴニョゴニョ言ったかと思うとその子の手をとってダンスの輪に加わらせたり(まだ満足に喋れないが、どうやって説得したのだろう)、おやつの時間にお友だちの顔を覗き込んで「◯◯ちゃん、おいしいねぇ」と言ったりするらしい。とんだお節介ヤロウじゃないか。

本の発売を控え、あれこれ気を揉むわたしを気遣って外に出た方がいい、外に出て美味しいランチでも食べてきたらいい、と夫は指図する。が気乗りせず、ならこうしよう、と仕事を早く切り上げて、午後公園に集合することになった。これはありがたいお節介だった。

公園で長いこと過ごすなら、さすがに寒いかと思って穿いたレギンスは歩き始めてすぐに脱ぎたくなり、今日は気温が高い。雲のないよい天気で、立体的な夏の雲のもうない空はどこまでも平面で、奥行きをまったく感じさせない。

公園までは歩いて一時間の道のりで、途中で本屋に寄り、今月の『群像』を買う。そして勇気を出して、新刊の注文用紙を差し出し、「私、今度出るこの本の著者なのですが、、」と切り出した。店長が対応してくれて、どうだっただろう、手応えは分からないまま「できることは何でもやらせてください」とたしかにわたしはそう言ったけれど、そんなセリフなかなか言わないなぁと、また汗をかきながらちょうどバイク屋の前を通った。ぴかぴかのバイクがみな同じ方を向いて並んでいる。

セブンに寄って、公園で食べるおやつを選ぶ。わたしはモンブラン、夫は何がいいだろう。電話で聞くと、300円のモンブランにあわせて、シュークリームとチョコバナナクレープ、まさかふたつを選ぶとは。予想外の選択だった。

途次、肉屋にも寄る。明日の晩に、と串カツ、ハムカツ、ヒレカツを買う。どれも安く、数本ずつ買って550円だった。揚げてもらうこともできるが、パン粉のままもらって、これは明日、家で揚げる。

大きな湖の前のベンチに座り、空はひらけてやはり雲はなく、だからどこまでも青い平面のよう。鴨がぱらぱらと何羽か目の前をすいーっと横切って、一羽一羽の引く水紋がVの字に、こんなに長い。それがうつくしくてぼんやり見届ける。
ほどなくして夫が現れ、ふたりベンチでさっきセブンで買ったおやつを食べる。無言で食べてしまえばすることもなく、子どもがいないと、こんなに暇で手持ち無沙汰で自由なのだ。
本は、いったい誰に届けたくて書くのだろう、と話す。せっかく書いたのだからたくさんの人に届けばいいと思う。でもそのたくさんの人とは誰のことなのだろう。誰かひとりを思って書いたのではなく、あの人のことも、またあるいはあの人の顔も浮かびはする。浮かんではまたそのことを忘れて、この一冊は誰のために書かれたものなのだろう。

木陰は涼しく、ゆるやかな勾配を大きな犬を連れたおじさんがしゃがんで「座れ、動くなよ」と言う。「動くなよ」と繰り返し、夫が「こわい」と言うので聞こえるよ! と小突く。犬だよ犬、なんて言ったっておじさんのほうは自分のことだと思うんじゃないか。ひやひやした。だいいちね、吠えるのは大きい犬じゃないよ、吠えるのはいつも小さい犬、と言うと「そう、私たちみたいにね」と夫に言われる。どーんと構えておけばいいのに、小さいことを気にしてそわそわしている。こうして小さい犬のようにギャンギャン吠える。

子どものお迎えに行き、帰宅してから編集Kさんと電話。今気になっていることなど話して共有できたのでほっとした。さっき営業に行った本屋から、早速注文が入ったとのこと。ありがたい。ちゃんと汲んでくれたのだ。また、もう本の見本が届くという。早く手に取ってみたい。

眠くなってしまった。子どもは近ごろおさるのジョージが好きで、YouTubeでよく見ている。ジョージの世界はやさしく、どんなとんでもないことをジョージがしでかしても、黄色い帽子のおじさんは怒らない。BGMもしっとりしているから、つけっぱなしでもあまり気にならない。

と、ここまで書いて夫が「ゴキブリ!」と叫ぶ。出たらしい。もう長いこと見ていないのでどのくらい嫌な感じだったか忘れてしまった。出どころの洗面所を見張ったが、出てくることはなかった。この家にゴキブリがいる。その事実をかかえて眠るのが憂うつだ。

今日読んだ榎本空さんの『それで君の声はどこにあるんだ?』がよかった。

「禍という緊急性にあって、希望とは未来の救いではなく現在の可能性という姿をとる。今ここに、その可能性を身体で、言葉で、行為できるかどうか。今この瞬間に、あり得たかもしれない今、いやあるべきであった今を体現していく。それが絶望を拒否すること。黒人の命が、他の命と同じように重く、肯定される世界。それは未だかつて存在したことのない未来であり、しかし今ここにおいて実現されねばならない世界である。」
というツイートで引用した箇所と、

「スタイル、声とは、自分を追い、自分を待つ歴史との絶え間ない対話から生まれる。それは自分の声でありながら、自分の所有物ではあり得ず、常に関係性の中に存在する。そこにあって真摯に問われなければならないのは、自分は何の後を生きているのか、ということだろう。」
ここも印象に残る。いい本に出会った。すこし前に、編集Kさんにお薦めしてもらったのだった。

砂のお城

本が発売日を迎えるまで、最低週に一度は日記を書こうと意気込んでいたのにもう怠けてしまっている。身体もだるいし眠いけど、そういうコンディションでどんな風に書けるのか、ハードルを下げるためにも勢いで書いて更新してやろう。

朝、子どもが着替えの際に引き出しから水着を引っ張り出して「こえ!(これ)」と言うのであちゃーと思う。奥に隠しておいたはずだったのに見つかってしまった。なぜ水着を着たがるのか。きみはTPOというものを知らないのか(知らない)。水着といっても袖のあるつなぎのようなタイプで、素材を除けばまあ着て行けなくもない、パイナップルの陽気な柄で登園したらいいか、と思いつつ結局最後は泣かずに、なんとか穏便にTシャツに着替えてくれた。もうすっかり肌寒く、長袖を着せた。いつのまにか90センチが袖も折らずに着られるようになっている。

今日は教職員の卒アル記念撮影がある、と昨日寝る前からそのことはしっかりあたまにはあって、だからきっとジャケットを着ていかなければならない。忘れずに羽織って出かけた。水筒のお茶、冷たいの? あったかいの? と夫に聞かれ、迷って冷たいお茶をお願いする。氷はさすがにやめなね、と言われて従った。従って正解だった。

テスト前で、すこし早めに授業を終えて自習の時間に充てた。みな、静かに自習をするのでえらいものだと思う。前の学校では自習、というと途端にざわざわしはじめて、それはたいていおしゃべりの時間になった。生徒もブレザーを着ていて、やっぱり今日は寒い。夏は終わってしまって、だから一番今夏が遠いんだなと思う。金木犀はまだ香らないが、そろそろだろうか。

昼休み、職員室に戻ると「もうここ閉めるのでみなさん外へ出てください」と言われる。ぞろぞろと、教員も職員もみな移動して、正面玄関に写真撮影の台が設置されている。なんとなく流れで一番うしろの高い台に乗って、けっこうぎゅうぎゅうにつめて並ぶ。「もうすこしこっちへ詰めてもらえますか、前の方の間から顔を出す感じで!」とてきぱき指示を出すカメラマンをわずかに顎で指すようにして、「あいつ、同級生なんだよ、幼稚園同じでさ。みんなで作った砂場のお城あいつに壊されて、やな奴だったんだよほんと」と前に立つ先生が小声で話すので、こんなぎゅうぎゅうの距離感でそんな面白い話、その先生とほぼ話したことはないが、これはさすがに笑っていいだろう、とちゃんと聞いて、ちゃんと笑った。みんなの砂の城を破壊したカメラマンの指示に従いながら、揃ってマスクを外して、口は閉じたほうがいいのか、笑ったほうがいいのか、うっすらわたしは笑みをたたえて、そうして写真撮影は滞りなく終わった。

今日はたまたま授業変更があって午前中に授業を終え、テストも刷って折り、急ぎの用もない。切れかけていた小テストの用紙を大量に印刷して、裁断機でどんどん切っていく。こういう単純作業がわたしは好きで、テストを折るのもまったく苦ではなく、なんなら他の人のも請け負ってもいいくらい。考えごととまでは及ばない、けれどこうして手を動かしながら何か思ったり、印刷室の教員の往来、チャイムの音、そういうものを半分気にして半分はぼんやりしながらどんどん作業する。この学期分は困らないであろう大量の用紙のストックができて、ちゃんと使い切れるだろうか、もし死んだら無駄になる紙を、一応生きて生徒に配る想定でこうしてじゃんじゃか刷っては切って、机の引き出しの奥へと仕舞い込んだ。

帰り道、本屋に寄って『群像』を読む。一番は大森静佳さんの随筆めあて。弟さんたちとシュノーケリングをしたときの話で、とても好きだった。今月号には他にも目次を見れば知り合いの名前がたくさん載っている。じっくり立ち読みして帰ってきてしまったが、明日また行って買おうと思う。自分の本の営業にも行かなければならない。レジを見て、どうだろう、話を聞いてくれるかどうか、自分の本は置いてもらえるだろうか。

夜は昨日に引き続きハヤシライス。今日は卵を乗せようと思って、そのタイミングでリビングにいた夫に「あ、オムハヤシにしたらよかったね」と言われ、するよ! と返すと歓喜の声。おいしく食べた。

今日も子どもはお気に入りのこまち(新幹線)と風呂に入り、こまちと眠りについた。布団に入るときにつめたい車両に腕が触れて、こまちか、とそのたびに思う。夫はテーブルを挟んで、今日わたしが買ってきておいたブラックモンブランを食べ、米を研ぎ、保育園から持ち帰った汚れものを洗ってくれた。今日は今シーズンに入ってはじめて、ストーブをつけた。

どんぐり三つ

朝、週に一度の買い出しへ。開店前に着いてしまい、しかし結構すでに待っている人がいる。みんなそんな前のめりにスーパーへ行くんだなと思い、わたしは開店直後の従業員がこぞって頭を下げているのが苦手でささっと俯きがちに通り過ぎてしまう。

夫はその後午前のみ仕事へ行った。子どもとふたり、することもなく電車に乗って二駅先の公園を目指すが、子が駅前の児童館に吸い込まれるようにして一目散に掛けて行くので仕方なく着いて行く。本来は予約制なのでどうだろう、と思ったが今日はまだ空きがあるのでどうぞと言われ安堵。ずっとトラックやミキサー車を無言で走らせていた。手持ち無沙汰に腕の毛などを抜く。

少し早めに出て、元々行くつもりだった公園に寄り、すると子どもは着くやいそいそと靴を脱ぎ(気合いを入れるときには靴を脱ぐスタイル)駆けていく。この公園は保育園でよく来るらしく、我が物顔で遊んでいた。奥には大きくて幅の広い滑り台がどーんとあり、脇のタイヤの階段をひょいひょいと登る。てっぺんは随分な高さで、そこから腹ばいになって滑り降り、それが結構なスピードでひやひやするが本人はなんでもない。行きにも会ったが、帰りの電車でも生徒に会う。ちょうど明日の漢字テストの勉強をしていたのだと、スマホの画像を見せてくれた。

午後、周南まで車を走らせ、久しぶりにコンサートなるものへ行った。夫の中学時代の友人がピアニスト(ロー磨秀さん)で、その彼とバイオリニスト(ビルマン総平さん)、メインは箏奏者のLEOさん。家を出てからチケットを忘れたことに気づきUターンして開演ぎりぎりになってしまい、席の両隣に人がおり今さらそこに入るのが申し訳ない気持ちに。

他人とこんなきつきつの距離感で長時間いることが久しぶりで、はじめは隣の人のちょっとした咳払いや鼻をすする音なんかがものすごく気になって集中できず難儀した。途中、笛ラムネのような「ピーー」という音が何度も聞こえ、前の席で耳を気にして触っている人が見えて補聴器なのだろうか、音が演者は気にならないだろうか、ということが気になり、当人も焦っているのではないか、とこちらが勝手に焦り、それは少しして止んだのでやっとほっとして、忘れていたけれど「みんなでなんか観る、聴く」そういう場では他人の色々がすごく気になったりするのだった。他者に触れたような、ちょっとそれはこれまですっかりなくしてしまっていた感覚だった。ソーシャルディスタンス、と呼んで今までが快適すぎたのだった。

夫のよしみでローさんが楽屋に呼んでくれて、子どもも一緒に挨拶をし、子の手の甲に描いたわたしの下手な絵を見て「これはなんだろう」と言われて恥ずかしかった。それは、、消えかけのトトロです、、。

周南に来たのなら、と徳山駅前の蔦屋書店に寄り、新刊『せいいっぱいの悪口』の営業。レジへ行き、訳を話すと店長さんを呼んでくれた。まったく無名の新人だが地元の書き手ということで、応援していただけそうな手応えを得て、一冊でもいいので置いてもらえたらなと思う。しかし、棚を見るにやはりビジネス、実用書が多く文芸系の取り扱いは少ないのかもしれない。置いてもらえても手に取ってもらえるかどうか、店内は結構ざわざわしていてゆっくり本棚を眺める人は少ないようだった。隣接するスタバが混んでいて、ここは中学か高校かというくらい学生が多い。席で無音で踊りを練習していたりする。東京とは雰囲気が違う。高瀬隼子さんの『犬のかたちをしているもの』、文庫を買った。

夕飯はびっくりドンキーへ行き、いつぶりだろう、もうあのどでかい木のメニューもなく、けれどハンバーグは美味しかった。子どもがすぐに飽きて裸足で店内を走り回るのに閉口。一歳児との外食はまだ無理なのだろうか。いつになったら落ち着いて外食できるのだろう。びっくりドンキーでわたしはほとんど子どもを追いかけ回していた。

子どもが眠る前、引き出しから水着を引っ張り出して着たがるので従うが、オムツもいそいそと脱ぐ。しばらくそのままにさせたがそのまま寝かせるわけにはいかない。なんとかオムツを履かせるが泣き、泣きながら夫に絵本を読ませようとする。最近気に入っている『おちゃのじかんにきたとら』(ジュディス・カー、晴海耕平訳)はふしぎな話で、ある日とつぜんソフィーとお母さんがお茶をしようというそのときにトラがやってくる。何か食べさせてほしいと。それでトラはお茶のためのお菓子やサンドイッチを平らげ、家のなかの食べ物、飲み物、しまいには水道の水をぜんぶ、飲み切ってしまう。そしていとまを告げ、それきり二度とやって来ることはなかった。おしまい。絵本の最後にに「ジュディス・カーは著名なドイツ人作家の娘としてベルリンに生まれました。カーはナチスの手を逃れて1933年に家族とともにドイツを離れました」とあり、夫によるとこのトラはヒトラーの暗喩であると読む人もいるらしい。これはこれとして不条理として読めばいいように思うが、たしかに調べるとそういうことを書いている人もいる。「トラの目が怖い」という。そりゃトラの目はこわいだろうと思う。

わたしがコンサートで他人の発する音にやきもきしている間、夫と子どもは近くの動物園に行き、ゾウからどんぐりをもらったり、カバの鼻の水飛沫を眺めたりしていたのだそう。ゾウがどんぐりくれるなんてすてきだ。小さなそのどんぐり三つは、風呂の洗面器に浮かんでいる。

威張ることじゃない


日曜は近くのスーパーがポイント五倍なのでそれに合わせてだいたい買い物に行く。一歳の子どもを売り場に放つと手当たり次第触りたいものに触れようとして手を焼くので、夫に任せてひとりでせかせかとスマホのメモを見つつまわる。今シーズン初めて秋刀魚を手にした。途中、急激な腹痛に見舞われサービスカウンターに買い物かごを預けトイレに駆け込む一幕もあった。

スーパーはモールのなかにあって、専門店街の通りにあたらしくワイモバイルができていた。しかし、その両隣はUQモバイル楽天モバイル。需要があるからそこにあたらしくできるわけで、わたしだって何を隠そう楽天モバイルユーザーであり、しかしそれでも、もっとなんとかならないのかなと思いつつ、その手前の広場では小児救急医療にかんする相談会なるものが催されていた。山大病院の医師が相談に乗ってくれるという。「なんでも構いませんよ、ぜひ」とスタッフらしき女性に言われたが開始まであと三〇分はあるらしく、ポケットティッシュだけもらった。しかし夫は参加したそうだった。相談することがあればいいが何かあるだろうか。アレルギーのこととか? 参加すると「ちょうこくん」(市のマスコット)のぬいぐるみがもらえるらしいことだけ、すこし心残りだった。

帰宅後、アパート下に夫と子どもを待たせて大急ぎで焼きそばをジャッと作り、タッパーに詰め、階段をまた駆け下りる。今日は近くの公園内の遊園地が一〇〇〇円で乗り物乗り放題、天気もいいし思いつきで行ってみることに。
しかしこれが地方のリアルというのか、イベントなんてほかになく、すると一極集中してしまってとにかくものすごい人。いつもの寂れた場所と思えず、だってこんな、なんてことないダンボもどきの乗り物に行列している。早々に諦め、トーマスのささやかな乗り物に乗せてやった。秋晴れといえばそうだが昼間は日差しが強い。こんな暑い中つまらないアトラクションに並んで、ふだんはガラガラなのに、みんなバカなんじゃないかと思うがわたしだって同じ気持ちで勇んでやってきて、子どもは一歳だからまだ興味をそらせることはできるものの、もっと大きくなれば「やっぱり帰りましょう」なんて聞き入れるはずがなく、好きで並んでるわけじゃないよな、と思い直す。みんな、といつもひとまとめにして勝手に見下したり、そうして自分の愚かさにこうして書きはじめてやっと気づいたりする。

遊園地からはなれた広場で焼きそばを食べ、しかし子どもは丘の上にあるバスのアート作品が気になって仕方なく、ぐいぐい手を引っ張られる。広々した丘にはシートを広げてくつろぐ人びと、大きな犬を連れたひと、「ワンワンおっきいねー」と言いながら近づくも、子どものひと回りどころかさらに大きな犬、それも二匹、はなれた場所から遠慮がちに子は犬を眺めていた。

ほとんど抱っこをつねにせがまれるが、安全な場所と判断すればたちまちそこは子どもの遊び場になって、急に丘を駆け出す。先に追いかけていた夫の「あー!」という声、子どもの泣き声、坂で加速度がついて止まれずそのままもつれるように転んでしかも前転したのだという。泣くがそれも案外一瞬なのだった。噴水を見つけてせっせと靴を脱ぎ池に入ろうとするが底がぬめっておりなんとか回避して帰路の途。

昨日郵送した校閲ゲラが無事にKさんの元へ届いたと追跡で分かり、ほっとする。窓口で「台風の様子によってはなんとも」と言われ、締切ギリギリだったので気を揉んでいた。戻しの作業は連絡がなければ無事に進行しているということらしく、メールが届くと一瞬ドキッとする。

車でこてんと寝た子どもをリビングに寝かせ、その横に夫が寝そべって、会話はしないが起きているらしい。わたしはそのそばのソファで本を広げている。外から、タンタン、でもパンパン、でもない(的確なオノマトペを言ってみせるのが苦手)何かが何かを打ちつける音。遅れてトントントントットット、と金槌の音が聞こえて、屋根の修理だろうか。外の日差しは今もあかるく風もあり、ベランダの洗濯物がはためくたびに開いたページがチラチラと乱反射するように、よく晴れた日にだけ見る、本がこうしていっとき水面のようになる感じ。ハンガーが窓に当たって不規則にこつこつ、言う。

さっきから何やら熱っぽく、試しに測ってみると三七.四℃ある。やっぱり、と思うがそう考えればこのくらいの怠さというのは珍しいことではなく、ならば気づかないだけで熱、出しているのかもしれない。みんなも熱、知らない間に出しているんじゃないだろうか。保育園に行かせる平日は毎朝検温せねばならず、それで春からは自分たちも熱を測る癖というか、ん、ちょっとこれはと思ったらすぐに測るようになった。全然外れるときもあれば、やっぱりと思うこともあり、でも結局はそんなに勘はあてにはならない。

今は風呂でこの日記を書いており、さっきまで子どもが「あーっ!」「これぇー!これー!」と、なんの絵本を読んでもらっているのか大歓声が聞こえていたがそれも静まって、眠ってしまえば当たり前だがこんなに音のない部屋、というか家。

今朝、夫が「こんな元気なのは元気から生まれた元気ちゃんだから」と子どもに言い、いやわたしから生まれたんですが、と思って思うだけでなくそう言った。「もし立ち会い出産してればそんなこと言わないんじゃない」とも言った。いや、書きながらそんなことはまったくなく、けれどあの辛さやしんどさが無碍にされるような、その一瞬のやりとりで感じたネガティブな何かは飲み込みたくなかった。威張ることじゃないのに、けれどこういう反応をしてしまう。

今日は大阪文フリ、TLも盛り上がっており羨ましく、東京文フリはどんな感じなのかなと、まだ二カ月も先なのにそわそわする。自分の本を求めに来てくれる人はいるだろうか。すこしはいてくれるかもしれない、でもたくさんいてほしい、たくさん来てくれるだろうか、そう欲張った根性が何より厄介で、どういう心持ちで発売日までいればよいのか、あと一ヵ月こんな感じで心ここにあらずの状態かもしれない。それも含めて、カウントダウン的に生活の記録を残していこうと思う。

相撲は千秋楽、高安が負けて残念。なんとなく、この春から高安をひいきに応援している。

ほんとうに雑記

最近あったこと、思っていること。

なぜかTwitterから気持ちが離れて(気持ちが離れて?)だいたいいつからか、Twitterアプリがどこかへ消えてしまってわざわざAppライブラリのところから開かなくてはならないのが煩わしく、それでも人のつぶやきは見ているが自分がつぶやくのには腰が重い。そう思っているような人がほかにも多くいるのか、同じような人がいつもつぶやいている印象がある。たとえば鍵アカの、等身大のその人の生活のつぶやきを見るのは好きだけれど、他人のいいねが反映されるようになってから何万いいねみたいなものばかりが流れてきて、そういうのをずっと目にするのは疲れるということなのだと思う。なんとなく、だからこっちに書いてみようかなと思って、ブログもブログで長いこと開いていなかった。アクセス解析を見てみると、一日誰にも読まれていない日もあれば、17人とかが来てくれていることもある。

四月、子どもが保育園に入ってからというもの、常にだれかが体調を崩している、そういう状態がつづいていて、はじめは子どもが園でもらってきたものがわたしか夫に移るという感じで今はわたしが風邪を引いている。これまで二年以上風邪知らずだったので春から数えて4〜5回目の風邪、二年の空白を埋めまくる勢いで鼻水、喉の痛み、咳、熱がつぎつぎにやってきては去っていく。とくに喉の痛み、そう喉が痛いという状態が昔からほんとうに苦痛でたまらず、たとえば熱や咳、あるいは風邪の終わりかけのほうの黄色い鼻水がビーっときれいに全部出たり、痰が出たり、そういうのは平気というかむしろすっきりするが、とにかく喉がちょっとでも痛いのは自分には大ダメージでなにしろ、食べることが楽しくない。冷たい飲み物も飲めなくなるし、氷をガリガリやる元気もなくなる。食べることが楽しくなければなにもかもみな投げやりになってしまう。だから風邪を引かないように手をこまめに洗って、それを夫にも強要したり、夫が風邪のときには管理体制を敷いてとにかく自分は移されないように、それにコロナ禍でマスク生活も重なって風邪知らずの穏やかな日々だったのが、子どもが保育園に入ってすべて崩れ去ったのだった。ガラガラガラ…(すべてが崩れ去る音)。子どもとの生活において子どもと距離を保つことなど皆目無理なので、鼻が垂れたまま顔を押しつけられたりものすごい至近距離で咳を浴びたりまったく無抵抗の状態に、そういうわけで今も風邪。喉が痛い。何度引いてもあたらしく悲しくてつらい。日々喉が痛くなることを恐れすぎて「喉が痛いなぁ、嫌だなぁ」と思う夢まで見る始末。起きてよかった、痛くない、夢だった、とほっとするというのを何度もやっている。夫に「喉が痛い状態というのはこの世の嫌なことベスト5に入るね」と言うと、「しあわせな人だよ」というようなことを返されたのだがはなはだ心外。ほか四つがどんな深刻なものでも「喉の痛み」は必ずそこに入るのに。ほんとうに嫌。ふるえるほど嫌。みんなそうじゃないのかな。

子どもが保育園に入ってからやっとご飯をそれなりに食べるようになって、それはとても喜ばしいことだけどそれでも体重が増えず、この前の一歳半検診では先生に「うーん」と言われてしまった。成長曲線の下弦ぎりぎり。頭囲も下ぎりぎり。それでも身長は真ん中くらい、モデルかよと思う。もっとむちむちぼてぼてしていいのに。食べ過ぎて困るというはなしも聞くがこちらからしたらうらやましいことこの上ない。育児ではきっとそれぞれに違うことであらゆる方面に悩み、それも少し経てば落ち着いて、また別の悩みがやってくる。歩き始めよりもよく転ぶなぁとか。大丈夫なのか。あとは近ごろでは、言葉がそろそろ出るのかなぁと思っていたところだった。というのも一歳半健診では「意味のある言葉を話しますか」という項目があって、健診のお知らせが届いた当時はまだ何も話すことはなかったのでそうかぁ、遅いのかなとそれも案じていたが、ちょうど一歳半になったこの一か月でいろいろと出てきたなと毎日驚いている。急にその言葉を言えるようになるのではなく、ッチ、ック、という感じでまず語尾が出てくる。「ッチ」は「タッチ」のことで言いながら手を合わせてくるのでおお、と思う。「ック」は「トラック」でトラックを見つけるたびに言うのでなるほど、と合点した。「ック」は少しずつ明瞭度があがって、いまは「アック」と言う。「っかーい!」は人差し指を高々と掲げて叫ぶ「もう一回」。楽しかったことうれしかったこと、美味しかったものはすべて「っかーい!」。ほか、あった、ないない、あれー?、はい、などははっきり言えて、もうなにかが存在する/しない、そのことを理解しているんだな。りっぱだな、と思って見ている。そしていまは、トーマスが好きすぎる。でもトーマス、とは言えず。トーマスを狂ったように毎日見ているので段々覚えてきた。親友のパーシー、急行列車を牽くゴードン、レベッカ、ニア、エミリー、ジェームス。トーマスは毎回かならず「ぼくはとっても役に立つ蒸気機関車だからね!」と言うのが決まりなのか、トーマスの世界では「役に立つ/立たない」ことが一番大きな価値になっていて、そのことはあまりいただけない、と夫とよく話す。とにかくいま、子どもはトーマスがいいらしい。

そう、食べないながらもなんとか食べられるようになってきた最近のヒット「ジャム&胡桃パン」、それについて書きたかったのだった。たまたま実家から持って帰ってきたレモンのママレードが見事に大当たり、かつこれもたまたま半額で買ったタカキベーカリーの胡桃食パン。この組み合わせがベストマッチらしくよく食べる。好みのものがあったらもうそれにすがるようにして毎食与えるが、なにせこの胡桃パンは高いのでケチな自分はためらうのだけど、夫が「いいよそんなん!買おうよ!」と豪語するので胡桃食パン。タカキベーカリータカキベーカリーのパンはどれもとても美味しい(でも高い)。

もうひとつ。先日の文フリ東京で手に入れた植本一子さんと滝口悠生さんの往復書簡『ひとりになること 花をおくるよ』がとてもよかったので、とくによかった滝口さんのところを引用。とりわけ子育てのはなしがやはりいまは胸に響く

「…凡庸といえばとても凡庸な感慨なのですが、子どもを育てているとそんなふうに多くの親たちが昔から感じてきたのであろう感慨をなぞる感覚がたびたびあります。誰もが感じるからこそ、その感慨が紋切り型になっていき、凡庸に思えるのでしょうが、実際に感慨に浸るとき、その感慨はいまわたし個人のものなのだから、それは個別で個人的な、代えの利かない特別なものであるはずで、そういうときに凡庸な感慨が自分のものになるんだなと思います。親とは、みたいなことを考えてしまうのもそういうときですね。良きにつけ悪しきにつけ。」(2022-01-31一子さんへ)

連載のこと

晶文社で約2年つづいた連載が終わった。担当に甘えて18回も書いた。連載はエッセイで、うちにムーミンがやってきて、そして去っていた、簡単に言えばそういうものだった。でももっと色んなことを考えて、つねに考えて過ごした2年だったと思う。はじめから「可能性を見込んで」ということで単行本化ありきの連載ではなかったから、(わたしの場合)原稿料はなく、場を与えていただいたというかたちだった。

終えて思うのは、読まれることのよろこびよりも「読まれないんだな」というほうの感慨だったかもしれない。(傲慢だ!)

4000字というボリュームに加えて、わたしの書くものにはだいたいテーマもなければ主張もない。ぼんやりしている。自分のことばかり書く。そんなものを、みんな忙しいのに、スマホのちいさな(ちいさなといって年々液晶はじわじわと大きくなっているがそれもやはり相対的に)いったいいつ、だれが読むのだろうと想像はできないが、それでも知らない誰かが読んでくれると勝手に思っていた。なんか拗ねてるみたいだ。

だいたいまわりがすごすぎるからいけない。一年間の連載を終えて単行本化の準備に入ります、みたいなツイートにみんなやんややんやお祭りみたいに盛り上がるのをずっと見ていたから、自分のこの終わり方がとても残念なもののように思ってしまう。去年の夏頃、担当に恐る恐る「この連載は本になりますか?」と聞き、それは難しいと言われたこと。そもそもそういう話ではなかったのだから当然なのに、自分には書く才能がないのだと落ち込んで一週間泣き続けた。そういうことを思い出す。はじめから自分だってこれが本になるなんて思ってもいなかったのに、どうしたことだろう。また自分で一冊にまとめることだってできるのに、多分実力不足だと言われたのだと思うことが苦しかった。しかし担当を悪く言うつもりは一切なく、それはまったく本意ではない。ああ。元来の卑屈さがここへ来てものすごい速さで回転してあつあつで、さわれないからもうどっか行ってほしい。

誰にも頼まれたことではないのだから、書くことはいつでもやめられて、疲れたらやめたらいいのだと思う。もし、今目の前の締切がなかったら一旦やめていたかもしれない。自分の意志でやめようと思わずに済んだことを、もうすこし考えを先送りにできたことを、今のわたしはたぶんとてもありがたいことだと思っている。

書きたいことがないからいけないのかもしれない。もとより、簡単な言葉、簡単な思考、凡庸な精神しか持ち合わせていない。だから伝えなければと思うこともない。これはいろんな人が言っていることかもしれない。人がそう言っていると好きにしなよ知らないよ、と思うのに言ってしまう、それがかっこいい、ほんとのことみたいな顔をしてしまう。伝えたいことがあるのはいいなと思う。ほんとうには意識しない分の何かはわたしにだってあり、書かないでいる日々のことを思うことはとても苦しい。だいたいは言ってしまえば好きでやっていることで、読まれずにいた日々をへこたれて、うじうじとしているほうが粗末なことだ。でも。自分も含め読者は読者さまであるとも思う。阿ることはないのだ、という気概はつねに揺らぐ。テーマが。言いたいことをもっとはっきりと。担当にはそういうことは一切言われたことはなく、それはとてもありがたかった。でも、だから読んでもらえるように書かなかった自分が悪い。悪いのだろうかね。ただそうしなかったし、どうしたらいいのか分からなかったのだと思う。

一冊になれば、なってしまえば読んでもらえるのかもしれない、と思いながら、ネット発のものとして、ネットで読まれなければそれが本になることがないのは明らかだ。あらためて、商業で本が出せることはすごいことで、その大きな壁を、見上げるばかり(という、ウソの比喩表現がとても嫌い、わたしはなにも見上げてない)。

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ちょうど今夜のこと。スタバに行った自転車の帰り道、家の近くの一本道の向こうにチカチカ電飾が光っている。もうハロウィンでもクリスマスでもない。そこの民家が何やら大仰な飾りを季節ごとにくっつけているのは知っていたが、そこを通るのは週一回のプラごみを出しに行くときだけで、夜はこんなにちゃんとイルミネーション(?)やってんだ、、こんな田舎で、誰も通らない小道で、、と思って一本遠回りしてその家の前を通ってみる。何のイベントを盛り上げるためのライトアップなのかは知れず、赤、オレンジ、緑のランダムな光が誰にも見られずに点滅している。いや、わたしにだけ見られて、ただ光っていた。こういうものでいいのに、と思う。何が書かれているのかわからない。だれのために、なんのために書かれたのかわからない。ただそこにある。そういうもの。

とてもいじけた文章をよく書いたものだと思う。ほんとうには、これまで連載を読んでくださってありがとうと書きたかったのに。無名のわたしに素晴らしい場を与えてくださったことを、担当編集に何よりお礼したかった。まだメールを返せていない。それが本心であると言えるような今の気持ちに寄った言葉が見つからなくて、失礼を引き延ばしている。だれに何を言われても言われなくても、いや、以前単発で記事を書かせていただいた編集のかたにいただいた葉書のその最後に、とてもとてもちいさな文字で「ずっと、ずっと書き続けてください」と書かれていたことを、ほんとうにはそのことを忘れたことはないのだ。