いつも胸やけ

ムーミンと夫と子どもと暮らしています

連載のこと

晶文社で約2年つづいた連載が終わった。担当に甘えて18回も書いた。連載はエッセイで、うちにムーミンがやってきて、そして去っていた、簡単に言えばそういうものだった。でももっと色んなことを考えて、つねに考えて過ごした2年だったと思う。はじめから「可能性を見込んで」ということで単行本化ありきの連載ではなかったから、(わたしの場合)原稿料はなく、場を与えていただいたというかたちだった。

終えて思うのは、読まれることのよろこびよりも「読まれないんだな」というほうの感慨だったかもしれない。(傲慢だ!)

4000字というボリュームに加えて、わたしの書くものにはだいたいテーマもなければ主張もない。ぼんやりしている。自分のことばかり書く。そんなものを、みんな忙しいのに、スマホのちいさな(ちいさなといって年々液晶はじわじわと大きくなっているがそれもやはり相対的に)いったいいつ、だれが読むのだろうと想像はできないが、それでも知らない誰かが読んでくれると勝手に思っていた。なんか拗ねてるみたいだ。

だいたいまわりがすごすぎるからいけない。一年間の連載を終えて単行本化の準備に入ります、みたいなツイートにみんなやんややんやお祭りみたいに盛り上がるのをずっと見ていたから、自分のこの終わり方がとても残念なもののように思ってしまう。去年の夏頃、担当に恐る恐る「この連載は本になりますか?」と聞き、それは難しいと言われたこと。そもそもそういう話ではなかったのだから当然なのに、自分には書く才能がないのだと落ち込んで一週間泣き続けた。そういうことを思い出す。はじめから自分だってこれが本になるなんて思ってもいなかったのに、どうしたことだろう。また自分で一冊にまとめることだってできるのに、多分実力不足だと言われたのだと思うことが苦しかった。しかし担当を悪く言うつもりは一切なく、それはまったく本意ではない。ああ。元来の卑屈さがここへ来てものすごい速さで回転してあつあつで、さわれないからもうどっか行ってほしい。

誰にも頼まれたことではないのだから、書くことはいつでもやめられて、疲れたらやめたらいいのだと思う。もし、今目の前の締切がなかったら一旦やめていたかもしれない。自分の意志でやめようと思わずに済んだことを、もうすこし考えを先送りにできたことを、今のわたしはたぶんとてもありがたいことだと思っている。

書きたいことがないからいけないのかもしれない。もとより、簡単な言葉、簡単な思考、凡庸な精神しか持ち合わせていない。だから伝えなければと思うこともない。これはいろんな人が言っていることかもしれない。人がそう言っていると好きにしなよ知らないよ、と思うのに言ってしまう、それがかっこいい、ほんとのことみたいな顔をしてしまう。伝えたいことがあるのはいいなと思う。ほんとうには意識しない分の何かはわたしにだってあり、書かないでいる日々のことを思うことはとても苦しい。だいたいは言ってしまえば好きでやっていることで、読まれずにいた日々をへこたれて、うじうじとしているほうが粗末なことだ。でも。自分も含め読者は読者さまであるとも思う。阿ることはないのだ、という気概はつねに揺らぐ。テーマが。言いたいことをもっとはっきりと。担当にはそういうことは一切言われたことはなく、それはとてもありがたかった。でも、だから読んでもらえるように書かなかった自分が悪い。悪いのだろうかね。ただそうしなかったし、どうしたらいいのか分からなかったのだと思う。

一冊になれば、なってしまえば読んでもらえるのかもしれない、と思いながら、ネット発のものとして、ネットで読まれなければそれが本になることがないのは明らかだ。あらためて、商業で本が出せることはすごいことで、その大きな壁を、見上げるばかり(という、ウソの比喩表現がとても嫌い、わたしはなにも見上げてない)。

✳︎

ちょうど今夜のこと。スタバに行った自転車の帰り道、家の近くの一本道の向こうにチカチカ電飾が光っている。もうハロウィンでもクリスマスでもない。そこの民家が何やら大仰な飾りを季節ごとにくっつけているのは知っていたが、そこを通るのは週一回のプラごみを出しに行くときだけで、夜はこんなにちゃんとイルミネーション(?)やってんだ、、こんな田舎で、誰も通らない小道で、、と思って一本遠回りしてその家の前を通ってみる。何のイベントを盛り上げるためのライトアップなのかは知れず、赤、オレンジ、緑のランダムな光が誰にも見られずに点滅している。いや、わたしにだけ見られて、ただ光っていた。こういうものでいいのに、と思う。何が書かれているのかわからない。だれのために、なんのために書かれたのかわからない。ただそこにある。そういうもの。

とてもいじけた文章をよく書いたものだと思う。ほんとうには、これまで連載を読んでくださってありがとうと書きたかったのに。無名のわたしに素晴らしい場を与えてくださったことを、担当編集に何よりお礼したかった。まだメールを返せていない。それが本心であると言えるような今の気持ちに寄った言葉が見つからなくて、失礼を引き延ばしている。だれに何を言われても言われなくても、いや、以前単発で記事を書かせていただいた編集のかたにいただいた葉書のその最後に、とてもとてもちいさな文字で「ずっと、ずっと書き続けてください」と書かれていたことを、ほんとうにはそのことを忘れたことはないのだ。