いつも胸やけ

ムーミンと夫と子どもと暮らしています

ほんとうに雑記

最近あったこと、思っていること。

なぜかTwitterから気持ちが離れて(気持ちが離れて?)だいたいいつからか、Twitterアプリがどこかへ消えてしまってわざわざAppライブラリのところから開かなくてはならないのが煩わしく、それでも人のつぶやきは見ているが自分がつぶやくのには腰が重い。そう思っているような人がほかにも多くいるのか、同じような人がいつもつぶやいている印象がある。たとえば鍵アカの、等身大のその人の生活のつぶやきを見るのは好きだけれど、他人のいいねが反映されるようになってから何万いいねみたいなものばかりが流れてきて、そういうのをずっと目にするのは疲れるということなのだと思う。なんとなく、だからこっちに書いてみようかなと思って、ブログもブログで長いこと開いていなかった。アクセス解析を見てみると、一日誰にも読まれていない日もあれば、17人とかが来てくれていることもある。

四月、子どもが保育園に入ってからというもの、常にだれかが体調を崩している、そういう状態がつづいていて、はじめは子どもが園でもらってきたものがわたしか夫に移るという感じで今はわたしが風邪を引いている。これまで二年以上風邪知らずだったので春から数えて4〜5回目の風邪、二年の空白を埋めまくる勢いで鼻水、喉の痛み、咳、熱がつぎつぎにやってきては去っていく。とくに喉の痛み、そう喉が痛いという状態が昔からほんとうに苦痛でたまらず、たとえば熱や咳、あるいは風邪の終わりかけのほうの黄色い鼻水がビーっときれいに全部出たり、痰が出たり、そういうのは平気というかむしろすっきりするが、とにかく喉がちょっとでも痛いのは自分には大ダメージでなにしろ、食べることが楽しくない。冷たい飲み物も飲めなくなるし、氷をガリガリやる元気もなくなる。食べることが楽しくなければなにもかもみな投げやりになってしまう。だから風邪を引かないように手をこまめに洗って、それを夫にも強要したり、夫が風邪のときには管理体制を敷いてとにかく自分は移されないように、それにコロナ禍でマスク生活も重なって風邪知らずの穏やかな日々だったのが、子どもが保育園に入ってすべて崩れ去ったのだった。ガラガラガラ…(すべてが崩れ去る音)。子どもとの生活において子どもと距離を保つことなど皆目無理なので、鼻が垂れたまま顔を押しつけられたりものすごい至近距離で咳を浴びたりまったく無抵抗の状態に、そういうわけで今も風邪。喉が痛い。何度引いてもあたらしく悲しくてつらい。日々喉が痛くなることを恐れすぎて「喉が痛いなぁ、嫌だなぁ」と思う夢まで見る始末。起きてよかった、痛くない、夢だった、とほっとするというのを何度もやっている。夫に「喉が痛い状態というのはこの世の嫌なことベスト5に入るね」と言うと、「しあわせな人だよ」というようなことを返されたのだがはなはだ心外。ほか四つがどんな深刻なものでも「喉の痛み」は必ずそこに入るのに。ほんとうに嫌。ふるえるほど嫌。みんなそうじゃないのかな。

子どもが保育園に入ってからやっとご飯をそれなりに食べるようになって、それはとても喜ばしいことだけどそれでも体重が増えず、この前の一歳半検診では先生に「うーん」と言われてしまった。成長曲線の下弦ぎりぎり。頭囲も下ぎりぎり。それでも身長は真ん中くらい、モデルかよと思う。もっとむちむちぼてぼてしていいのに。食べ過ぎて困るというはなしも聞くがこちらからしたらうらやましいことこの上ない。育児ではきっとそれぞれに違うことであらゆる方面に悩み、それも少し経てば落ち着いて、また別の悩みがやってくる。歩き始めよりもよく転ぶなぁとか。大丈夫なのか。あとは近ごろでは、言葉がそろそろ出るのかなぁと思っていたところだった。というのも一歳半健診では「意味のある言葉を話しますか」という項目があって、健診のお知らせが届いた当時はまだ何も話すことはなかったのでそうかぁ、遅いのかなとそれも案じていたが、ちょうど一歳半になったこの一か月でいろいろと出てきたなと毎日驚いている。急にその言葉を言えるようになるのではなく、ッチ、ック、という感じでまず語尾が出てくる。「ッチ」は「タッチ」のことで言いながら手を合わせてくるのでおお、と思う。「ック」は「トラック」でトラックを見つけるたびに言うのでなるほど、と合点した。「ック」は少しずつ明瞭度があがって、いまは「アック」と言う。「っかーい!」は人差し指を高々と掲げて叫ぶ「もう一回」。楽しかったことうれしかったこと、美味しかったものはすべて「っかーい!」。ほか、あった、ないない、あれー?、はい、などははっきり言えて、もうなにかが存在する/しない、そのことを理解しているんだな。りっぱだな、と思って見ている。そしていまは、トーマスが好きすぎる。でもトーマス、とは言えず。トーマスを狂ったように毎日見ているので段々覚えてきた。親友のパーシー、急行列車を牽くゴードン、レベッカ、ニア、エミリー、ジェームス。トーマスは毎回かならず「ぼくはとっても役に立つ蒸気機関車だからね!」と言うのが決まりなのか、トーマスの世界では「役に立つ/立たない」ことが一番大きな価値になっていて、そのことはあまりいただけない、と夫とよく話す。とにかくいま、子どもはトーマスがいいらしい。

そう、食べないながらもなんとか食べられるようになってきた最近のヒット「ジャム&胡桃パン」、それについて書きたかったのだった。たまたま実家から持って帰ってきたレモンのママレードが見事に大当たり、かつこれもたまたま半額で買ったタカキベーカリーの胡桃食パン。この組み合わせがベストマッチらしくよく食べる。好みのものがあったらもうそれにすがるようにして毎食与えるが、なにせこの胡桃パンは高いのでケチな自分はためらうのだけど、夫が「いいよそんなん!買おうよ!」と豪語するので胡桃食パン。タカキベーカリータカキベーカリーのパンはどれもとても美味しい(でも高い)。

もうひとつ。先日の文フリ東京で手に入れた植本一子さんと滝口悠生さんの往復書簡『ひとりになること 花をおくるよ』がとてもよかったので、とくによかった滝口さんのところを引用。とりわけ子育てのはなしがやはりいまは胸に響く

「…凡庸といえばとても凡庸な感慨なのですが、子どもを育てているとそんなふうに多くの親たちが昔から感じてきたのであろう感慨をなぞる感覚がたびたびあります。誰もが感じるからこそ、その感慨が紋切り型になっていき、凡庸に思えるのでしょうが、実際に感慨に浸るとき、その感慨はいまわたし個人のものなのだから、それは個別で個人的な、代えの利かない特別なものであるはずで、そういうときに凡庸な感慨が自分のものになるんだなと思います。親とは、みたいなことを考えてしまうのもそういうときですね。良きにつけ悪しきにつけ。」(2022-01-31一子さんへ)