いつも胸やけ

ムーミンと夫と子どもと暮らしています

眉毛のある猫

子どもとふたりで迎える朝、夫は宿直。

着替え、ご飯、連絡帳記入、洗濯、自分の身支度、その間に子どもの熱を計ったり「いきさーちゃ、りるー(ミキサー車、見るー)」とYouTubeをせがまれたりジュースをこぼされたり、すこし前の自分からしたらこの朝の忙しさ、それをなんとかこなしていることにまず驚いて、今だって保育園に子どもを預け終えて自転車で職場へ向かいながら、どこかフィクションみたいな、ごっこ遊びをしているような気はずっと抜けない。

今日は授業はあまり上手くできなかったなと思う。何がどのくらい伝わっているのか分からないし、そもそも手応えなど、短期的には、こちらは何も感じることなどない。小テストのときにわたしが読み上げた何かの発音が、へんだった、と生徒に言われて、そんなことでいちいち傷ついている。関東からやってくれば自分の話し方のほうが少数派で、「せんせい」のイントネーションがそもそも違う。はじめの「せ」にアクセントを置く西の発音、わたしにはやっぱり慣れず、いつももごもごしてしまう。

職員室での雑談で、「お子さんまだ一人目?」と聞かれ、ひとりで手一杯でぜんぜん余裕がない、と返すと「そーんなのぜっったいだめよ!子どもの身になってごらんなさいな」と言われる。おわおわおわ、、ついに来た、と思う。よく聞くそういうアレだ。初めて言われて、真に受けまいと思いながら、一日引きずってしまった。ひとりっ子がかわいそうだと決めるのはいつも関係ない大人たちで、勝手にジャッジしないでほしいものだ。昼休み、真顔でそんなことを思いながら明太フランスをぶちぶち噛みちぎっては明太子の粒ををあたりに飛ばしていた。

あれもこれも、一日夫と話していないだけでこうして分かりやすく元気を失い、なんだってわたしはもやもやをひとりで上手く消化できない。夫に子どものお迎えを頼んで、放課後授業の進め方について話したり、銀行に寄ったり、アパートに着くと夫と子どもが階段にいて、子どもは消化器の収納された扉をガンガン閉じたり開けたり派手にやっていた。

夜、妹からかしわ(実家の猫)の写真が送られてきて、かしわには眉毛がある。まじまじと、見れば見るほど目のうえのその眉毛がかわいくて、つくづくいとおしい猫である。「なんか面白いことはないだろうか、腹を抱えて笑いたい」とつぶやくと、妹から「前も見たかもしれないけど」とツイートが送られてきて、それは以前わたしが妹に送ったものだったが、あらためて、涙を流すほど笑ってしまった。なんだ面白いことあるじゃないか。「泣いて笑ったや」と言うと「即効かよ」と返ってきた。高校生の頃は毎日、ほんとうに毎日何かしら些細なことを掬いあげては笑って、なにもなければストーブの火がよく燃えているだけで友だちとひとしきり笑った。しかし平坦な暮らしのなかでは笑わないほうが当たり前で、あのときのほうが、わたしたち、へんだったのだろうか。
夫は京都から研究で来てくれているNさんと飲みに出掛け、もうすぐ帰るという。早めにさっと夕飯を済ませたので、お腹が空いた。コンビニ寄れたら寄ってほしい、と言ったけど近くにないらしい。子どもはこまち、はやぶさ、ショベルカーといっしょに眠って、寝ているときに不意に腕や足でそれらに触れると存外に冷たく、そしてそれがすこし不愉快でもある。

Nさんは明日、うちで夕飯を食べる予定で、苦手なものがないか、など聞いてくるように頼んだのだけど、何を作ろうか、などと子の隣で寝転がりながら考えていたら夫が帰宅し、Nさんのお土産のお漬物を早速、冷凍ご飯を解凍していただいた。紫蘇のしば漬け、しょっぱくておいしかった。