いつも胸やけ

ムーミンと夫と子どもと暮らしています

陣痛の合間にスニッカーズ食べたなぁ

去年の今頃は入院してたな〜と思い返す。過去のこの頃どうしてた、って考えるのが好きだ。

予定日の4日前の深夜、トイレ…と思って目覚めたらなんか股の辺りが濡れていて「これは…」と思ったら破水、で夫を揺すって起こし、病院に連絡して荷物まとめて車で送ってもらった。車の中で流れてたのはくるりだったかなぁ。

病棟のなかに夫は入れず、じゃあここでってテキパキとお別れして陣痛待ちの部屋に通され、知らない医師が二人やってきて担当しますよろしく、と言われその一人は研修医で(大学病院なので)慣れない手つきでPCR検査の棒を鼻に突っ込まれた。左手には点滴、お腹には赤ちゃんの心拍を測るベルト、たちまち産む準備に入ってわぁ…と思って全然眠れなかった。トイレに行くたびにおしっこではない水と血がジャーッと流れて、バターみたいな粒状の何かがたくさん出て(これ何〜〜)と大変不気味だった。

そして翌日になっても陣痛は来ず、院内に骨盤のレントゲン撮りに出かけたり、お産セットも買っておいてねと言われ売店に行きふりかけやお菓子も買い、なんとなく浮かれた旅行者の心持ちだった。

その日の夜中にフム、お腹が痛いわね…??と思い始めてベッドにものすごい姿勢でうずくまってたら看護師さんに見つかり陣痛室に通されて、その後促進剤を点滴してから翌日の昼ごろ生まれることになる。去年のちょうど今頃、めちゃくちゃ叫んでいた。点滴入れてすぐはまだ余裕があって夫と電話したり、このまま電話繋いでたら生まれる瞬間に立ち会えるねーと言っていたが促進剤が効いてくるとそれどころじゃいっこうなくなり、やっぱ絶叫してるところをわざわざ聞かせることはなかったので電話は繋がず正解だった。しかし朝ごはんも昼ごはんも陣痛の合間に意地で平らげ、それでも足りずうめきながら「スニッカーズ…食べていいですか…」と断って分娩台の上でスニッカーズを貪った。看護師さんは笑っていた。

元々は別の産院に通ってたのを、妊娠後期になって「うーん…赤ちゃん大きくならないね」と言われ大学病院に転院になった。そもそもわたしは双角子宮という子宮奇形があり、はじめからリスク妊婦だったので無事産めるのかはつねに心配でほんとうに、元来のネガティブネイティブ(©︎川上未映子)も手伝って毎日泣き暮らすような感じでそこへ輪をかけて原因は分からないまま赤ちゃんは育ちが悪い、小さい、生まれてICUかも、退院長引くかも、というまさに安閑とはしていられない心持ちで毎日泣いて祈りながらお腹をさすっていたのだった。

はたして生まれた子は見立てよりも300gも大きく、ICUではなくGCUで数日様子を見てもらって一緒に退院もでき、この一年熱も出さず元気印で生きている。

最近は「いないいないばぁ」狂いになってリモコンをピッとやればワンワンが映ると理解し、何度でも泣きながらわたしや夫にリモコンを差し出してくる。「リモコンピッ」と言ってテレビをつけるとニヤニヤしながら身体を前後に揺する。みかんが好きで与えるとうれしくて渾身の力で握りつぶしてみかんのおいしい果汁はすべて滴り、皮だけになったのをまた差し出してくる(どうしろというのか)。

 

生まれてきてくれてありがとう、元気に生きてくれてありがとう、そういう感慨と、それでもわたしはわたし自身のいろいろなことを諦めきれないでいるから始末が悪い。書いたものが読まれたい、評価されたい気持ちがある。夫にかじりついて一通り泣き、「もっとちゃんと思ってること吐き出してみなよ」と言われ嗚咽混じりに「悔しい…」という言葉が出た。悔しいんだ。わたしは自分の書いたものに自信があるんだ。言葉が出て気づく。一方で人には「自信がない」とこぼしてばかりいる。でもそのときわたしは自分の顔を両手で隠しながら、泣くふりをしてだれかが慰めて褒めてくれる言葉を聞いている。そうでしょう、そうでしょうと思っている。どうしたらいいんだろう。なんで見つけてくれないの、という怒りさえある。できることをつづけて、目の前のことをやっていくしかない。

 

鼻水まで垂らして泣く、悔しくて泣くような夜があることを言わなければだれも知らないと思うと、あなたにもわたしの知らないそういう一時があるんだよなと当たり前のことに行き当たる。だからあの人はいいよな、なんてぜったいに思わない。会えば手を振って久しぶりーって言える大人はすごいな。ほんとうは全部話し合いたい。教えてほしい。そういう関係こそがただしいのだと思ってしまう。絶望のものうさのなかにあってわたしたちは、今生きてるんだから偉いことだ。

 

子どもが一年、生きてくれて心からうれしい。

また一年、積み重ねていく。