いつも胸やけ

ムーミンと夫と子どもと暮らしています

歌人見習いが車の免許を取るまで日記 その9

夕方。そろそろ夕飯の支度をばという時刻。外はまだまだ明るいなあなんてほげっとしているところ、インターホンが鳴る。

同じアパートに越してきたご夫婦が挨拶に来てくれたのだった。
昨日が結婚式だったとのことで、引き菓子をいただく。ジャンポールエヴァンだ。ワーオ豪華。

せっかく来てくれたのになぜかこちらがアワアワしてしまってちゃんと受け応えができず、かろうじておめでとうございますということと、名前は名乗れたものの、ほんとうは「私たちもこの春に東京から越してきて、何も分からないんですけど!でも何かあったら!ゴミのこととか!なんでも聞いて下さい!」くらいのことを言いたかった。もっと余裕があれば「よかったらまあお茶でもどうぞ」なんてことも言えたかもしれない。それはやんわり辞退されそうだけど。
しかし現実はままならぬ。「ええ、ああ、ええ、ああ」とか言いながらなんかいつのまにか自分でドアを閉めていた。なむさん。

得てして引っ越しの挨拶というのは緊張するものだ。

挨拶に伺った部屋の住人はどんな人だろう。裸族とかじゃないだろうか。見た目は普通だけど、毎晩爆音で民謡を流すかもしれない。いやそうでなくても、プライバシー的な何がしかによってコミュニケーションを絶っている人かもしれない。そしてそうであってもそれはこちらの責めることではないし、しかし出てきてくれなかったり素っ気なかったりしたらやっぱり寂しい、と勝手に思ってしまう。

インターホンを押すまでにいろんな思いがめぐる。まだ見ぬ隣人。夫と目を合わせて、インターホンを押す。そんなことを経験したのだワタシも。

だからこそそっけない対応をしてしまったことが悔しい。ああワタシは。ほんとうは。住民同士仲良くなって。バーベキューとかしたいのに。お醤油の貸し借りとかお土産のお裾分けもしたいのに。

全六戸のこぢんまりとしたアパートだ。おそらくみな、歳もあまり変わらない。
挨拶に来て下さるのだから顔を合わせればお天気の話プラスアルファくらいのことは話すかしら、そのくらいのコミュニケーションは許容しますよ!というスタンスはお持ちかもしれない。ジャンポールエヴァンだし。ふたつくれたし。

なぜワタシはあちらからのアクション!にしっかりと応えられなかったのだろう。

「なんかそっけない感じの人だったね」
「なんか髪もボサボサだったね」
「ね」
「一人で住んでんのかな」
「かもね」
「お菓子ふたつあげちゃった」
「うん」

なんて会話を、階段を降りながらふたりでしていたかもしれない。ふと目をやると遠く、煙突からの煙が見える。そう、ここからはいつも工場の様子がうかがえる。夕映えの、煙突。この場所でやっていけるのかしら。そんな不定形のもやもやが風に乗ってやってくる。

「さ、部屋に入ろう」
「うん」

ああそんなやりとりがあったのではないか、と考えるともう二度と取り返せない過ちを犯したのだワタシはという気持ちになってきた。今からすぐに彼らの部屋のインターホンを押しに行こう。お醤油を持って。まだ間に合う。

バーベキュー。お醤油。やりましょう。わたし一人じゃなくて。お天気。雨。雨ですね。夫。夫とふたり。や、晴れですね。東京から。いいお天気。階段のところからちょうど煙突が見えるでしょう。バーベキュー。ね。やりましょう。お醤油。やりましょう。みんなで。バーベキュー。きれいなんです。








目の前のドアがゆっくりと閉まる。


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